−「富士山を詠む」俳句賞の創設のきっかけは?
富士山の西南部の1/4を占める富士宮市は当時、“富士山のあるまち”をコンセプトにいろいろな企画や計画を進めていた時期で、文化事業のひとつとして、前任者が提案したと聞いています。「“富士山文化”を育むことが富士宮市の将来的な財産になる」という想いがとても強かったようです。
−創設されたのは2003年。その年の5月に富士山は、国内の検討会で世界自然遺産の候補から外れています。文化遺産を意識して、というわけではないんですね。
世界遺産のことは何も意識していなかったそうです。当時は「富士山が世界遺産になるなんて夢のまた夢だった」と聞いたことがあります。県庁に世界遺産推進部門ができたのも、4年後の2007年ですから。
−短歌ではなくて俳句にした理由は?
前任者自身が俳句をやっていたことが大きかったようです。当時はサラリーマン川柳などもブームだったそうで、短歌より俳句の方が日本人には親しみやすいと考えたから、とも話していました。日本各地に俳句の街がありますが、どこも有名な俳人を出した街です。俳人は出していないけれど、「富士山を詠む」俳句賞を続けることでいずれ富士宮市が俳句の街として知られるようになったらいい、という想いもあったみたいです。どこに出しても恥ずかしくない俳句賞を創設しようと、当初から投句料は無料、入賞・入選作品は1冊の作品集にまとめて入選者全員に無料で送付することを決め、選者をどなたにお願いするかにもかなりこだわったと聞いています。
−募集部門はふたつに分かれています。一般の部は全国からですが、小中学生の部は富士宮市内と限定したのはどうしてですか。
俳句賞の存在を周知させて募集を始めようと俳句専門誌に広告を出すことにしたんですが、お子さん向けの俳句の専門誌はありませんよね。当時はまだインターネットもそれほど普及していませんでしたから、全国の学校に周知させるのは難しい。それで富士宮市内の小中学校でやっている“富士山学習”という総合学習に取り入れてもらって、情操教育の一環として対応してもらえれば充分な数が集まるのではないかと考えたようです。集まらなかったら、その時にまた何か考えればいい、と。
−で、実際どれくらいの数の俳句が送られてきたのでしょう?
1回目は全部で4301句の応募がありました。そのうち一般の部が2309句で、全都道府県と台湾から送られてきました。以後、波はありますが、小中学生の部と合わせて平均3800を超える句を毎回送っていただいています。1人1句と限っていますが、一般の部では1句に止まらずに何句も送ってくださる方もいらっしゃるし、7月の募集開始が待ちきれないのか5月頃に送ってくださる方もいます。締め切り直前の応募が多いのも、1年に1句ということで厳選に厳選を重ねてくださっているからだと思います。みなさんの熱い想いを感じますし、それだけ富士山という題材が魅力的だということなんだと思います。
−送られてくる俳句を読んで感じるのはどんなことですか。
俳句に親しみ、俳句のことがよくわかっている前任者と違って、私は俳句についてまだまだ知らないことが多く、俳句では大根を“ダイコ”と読むことがあると知って驚いたり、初めて触れる表現や言葉の意味を辞書や本で確認しながらですが、どの句にも自分がこれまで思い浮かべたこともない視点や見たことのない景色が描かれているので、とても新鮮です。小中学生の俳句もストレートで瑞々しくて素晴らしいんです。とくに小学校低学年のお子さんの俳句は、言いたいことはみなさん似たようなことなのに、見立てるものや表現が違ってハッとさせられることが多いです。全部ひらがなだったり、びっくりマークがついていたりするのもかわいいし(ニコニコ)。自分にも子どもが2人いるので、微笑ましいなと思いながら読んでいます。
−胸がキュンキュンするような句ばかりですよね。富士山の魅力を言葉にして確認するという行為が、その先も自分の心のモヤモヤを言葉にして確認し、腑に落としていくということにつながっていけば、生き方や人間そのものも変わっていくのではないかと思えて、羨ましかったです。
俳句賞も創設から20年。1回目に応募した小学生たちは、もうみなさん成人しています。「その人たちが自分の子どもに富士山のことをどう伝えていくか、という段階に入ってきている。この先、新しい創造性に満ちた今までになかったような句が出てくると、そこに新たな“地域文化”が生まれてくるんだよ」と前任者に言われて、私もなるほどなあと思っているところです。
−みなさんに俳句を詠ませる富士山の魅力は、どこにあると思いますか。
過去20回の俳句賞の応募総数は約7万7000句に上ります。私は過去の作品集や去年、今年の応募作品くらいしか読めていませんが、それぞれの人にとって富士山がいかに特別な山か、よくわかりました。見える場所に住んでいる人は現実の、見えない場所に住んでいる人は心の中の富士山と生々しく向かい合って、富士山に対する熱い想いの丈を17音に凝縮している。短い中にみなさんのさまざまな感情、エピソードが隠されているんですよね。そのすべてを受け止め、包み込んでくれるような大きさが富士山にあるから、みなさん、富士山の句を詠みたくなるのではないかと思います。“富士山を褒めること”と“富士山に褒められること”。どの句にもその両方が含まれている気がします。
−富士宮市役所に奉職しようと思った理由を教えてください。
生まれ育った富士宮市が好きなので、恩返しがしたいと思って入庁しました。一度も地元を離れて暮らしたことがありませんし、せんげんさん(富士山本宮浅間大社)や富士山の近くにいたいという想いが強いですね。自然も豊かだし、とても暮らしやすいところです。
−富士山に対する意識はどんなふうに変わってきていますか。
小さな頃から毎日見ていたので、特別な存在と思ったことはほとんどなかったんですよ。でも今の部署に異動して、富士山を詠んだたくさんの俳句に触れたり、富士山にまつわるいろんな話を聞いて、富士山のそばで暮らせることは特別なことだし、富士山を大切にしなくてはいけないと思うようになりました。それを自分の子ども達にも伝えたい、一緒に子ども達と富士山の思い出を作りたいと思って、毎朝出勤する時に必ず子ども達と富士山の話をしています。「富士山の雪が白いドレスみたいだね」とか「雲で見えないけど何をしているのかな」とか。いつか「登りたい」と言ってくれたら嬉しいし、そしたら頑張って一緒に登ろうと思っています。
−これまで登頂したことは?
2回あります。1度目は小学校6年生の時に、今も市でやっている“富士宮親子登山”でした。親は当日都合が悪くなってしまって、ひと家族に1人つくことになっている、インストラクターの知らないお兄さんが一緒に登ってくれたんですが、すごく楽しかったです。2度目は20代後半。友人に誘われて母と3人で登りました。その時は、八合目くらいからすぐそこに見えているのに登っても登っても頂上が全然近づいてこなくて、「この不思議な現象はなんだ? 一生このままだったらどうしよう」と心配になりました(笑)。本当にしんどかったですが、頂上に着いたら景色が素晴らしくて、日差しは強いのに空気が冷たく澄んでいて・・。その時の達成感は、忘れられないですね。なかなか頂上に辿り着けない苦しい時間が、自分自身と向き合う時間にもなったのも、予想していなかっただけにありがたかったです。とてもいい経験でした。
−ちなみに杉村さんは俳句は詠まれるんですか。
いえ(苦笑)。去年4月に担当になってから俳句のことをいろいろ学ばせてもらっていますが、いざ自分が詠むとなると言葉が出てこなくて(苦笑)。でも俳句を読むのは大好きですので、是非、今年に限らず、来年、再来年と俳句賞に応募していただけると嬉しいです。
すぎむらちほ 1988年3月 富士宮市生まれ 市内の高校を卒業後、県内の専門学校へ進学。2009年から富士宮市役所に奉職。以降、市民の生活に根ざした部署に在籍していたが、2022年4月から現職。「まったく新しい世界でした」と当時を振り返る。一男(6歳)一女(4歳)の母。第1回「俳句賞」開催時は高校1年生。「募集は知っていたが、授業以外で俳句に触れたことはほとんどなく、応募はしなかったですね(苦笑)」。趣味はヨガ。
「富士山を詠む」俳句賞HP:
http://www.city.fujinomiya.lg.jp/sp/citizen/visuf8000000yfek.html
募集の締め切りは9月30日(当日消印有効)