−富士屋ホテルさんの創業は1878(明治11)年。20歳で渡米した創業者の山口仙之助さんが、アメリカから購入してきた牛を売ったお金が元手となったそうですね。
山口仙之助は日本の将来に牧畜事業が必ず役に立つと考えて7頭の種牛を買ってきましたが、帰国後、慶應義塾で福沢諭吉に国際観光の重要性を説かれてホテル業に乗り出すと決意したそうです。それで当時の在日外国人の憧れの的であり、東京や横浜からも近く、温泉地でもある箱根・宮ノ下にあった温泉旅館藤屋を買い取って洋風に改造し、富士屋ホテルと名前を変えて外国人を対象にした本格的なリゾートホテルとしてスタートしたと聞いています。ですから富士屋ホテルのドアのノブの位置は、ちょっと高いんですよ。
−その約60年後の1936(昭和11)年に作られたのが、河口湖畔に建つこの富士ビューホテルなわけですね。
はい。この地域を開発したいという強い思いを抱いていた地元の方たちが、多くの外国人観光客を受け入れていた富士屋ホテルに、県営ホテルの経営を委託したのがきっかけです。幻となった東京オリンピックも視野に入れていたようで、山梨県初の洋風ホテルでした。近隣の方々によると、戦争中はドイツの兵隊さんがいたそうです。戦後しばらくは、接収されて占領軍のアメリカ人とその家族のレスト・ホテルとして利用されました。アメリカ軍人の家族は週に一度、近隣の人たちのためにバーベキューをしてくれていたらしいです。ホテルの近所に住んでいる80代くらいの方が、小さい頃、アメリカの方からチョコレートやガムをもらったと話していました。食べ物のなかった時代ですから、それが楽しみだったようです。接収は1952(昭和27)年に解除されますが、その後も1958年まで、アメリカ軍との自由契約による施設貸与が継続していました。
−現在の建物は、当時のものではないんですよね。
1985(昭和60)年にリニューアルオープンしました。屋根の上の2つの展望塔をはじめ、外観はかつての建物を受け継いでいます。私は1985年の春に地元の高校を卒業しましたが、卒業アルバムにはリニューアル前の富士ビューホテルをバックにした集合写真がありますよ。
−地元の方がいかに親しみを持っているかがうかがえるお話ですね。
“富士ビューさん”と“さん”付けで呼ばれるくらいですからね。私も子どもの頃に母に連れられてよくここの庭に散歩をしに来ました。あまりに広くてきれいなので、母に「ここ、勝手に入って大丈夫なの?」と聞いた覚えがあります(笑)。
−当時の思い出が、ホテルマンになる動機につながっていたりしますか。
子どもの頃に外国のことについて詳しい先生に教わったことや、中学生からサッカーをやっていて、サッカー中継専門のテレビ番組でW杯や海外リーグの試合を見て海外の国々に興味を持ったことが、「外国と関わりのある仕事をしたい」と思ったきっかけです。いろんな仕事がある中で、自分ができそうな仕事で、かつ地元でできる仕事ということで、地元のホテルで働きたい、と大学時代に思うようになりました。その選択の中で、子どもの頃に訪れた富士ビューホテルが一番の候補になったわけです。ちょうどバブルの時代が始まって日本各地でリゾート開発も加速していましたから、将来安泰だな、という思いもありました(笑)。
−それで富士屋ホテルさんに就職された、と。
入社して最初に配属になったのは、ここのレストランでした。レストランのスタッフは勤務時間が早朝から夜までと長いので、昼食の後に休憩時間が2、3時間あるんですよ。休憩時間に昼寝をするスタッフが多い中で、私はジョギングしたり自転車で河口湖畔を走ったり釣りをしたり。趣味と仕事が両立できる環境なんて素晴らしいなあ、と思ったりしていました(笑)。
−その後、系列のいくつかのホテルで勤務されています。富士ビューホテルにはいつ、戻ってこられたんですか。
2014年、富士山が世界文化遺産に登録された翌年です。赴任した当初、外国人の比率は6%でしたが、今は4割です。外国からのお客さまは非常に増えていますね。中国、香港、台湾、タイなどアジアからの方が多いですが、昨日、宿泊帳を見ていたら、コスタリカやイスラエルからもたくさんいらしていてちょっとびっくりしました。みなさん、富士山に対する憧れはとても強いですね。富士山側と河口湖側の部屋がありますが、やはり富士山が見える部屋を希望されますしね。夏期には2泊、3泊して、その間に富士山に登ったり、一度チェックアウトして富士山に登って戻ってくるという方が非常に多いです。
−外国からの宿泊客が増えたことでの変化はありますか。
私たちはお客さまに喜んでいただくのが一番ですから、いろんなお話をしながら、そこからヒントを得て新たなものを取り入れるというのはいつもやっています。そうすることでまた評判が良くなりますからね。例えば、以前、インドのシリコンバレーと言われるバンガロールに幾つもホテルを持っているグループの統合支配人が家族でここに泊まった時に「地元の食材を使った郷土料理が食べられるおいしいところはないか」と訊かれて近所の居酒屋を紹介したら、すごく喜んでいただけた。それをきっかけに、近隣の飲食店の方たちに外国人の受け入れについての考えを聞いて、英語のメニューがあったり英語の対応が可能だったり、外国人に対してウエルカムなお店の情報をひとまとめにしたものを日本語と外国語で作りました。お食事付きでないお客さまにお渡ししていますが、とても喜ばれています。すごく頑張っている地元の飲食店もありますから、当ホテルとしてもお客さまに紹介しやすいですね。それを目当てにまた、お客さまがやって来られますから、いい相乗効果が生まれてくると嬉しいです。お客さまと当ホテルだけでなく、地元の人にプラスになる工夫を、これからもしていきたいです。
−富士ビューホテルの一番の特徴は、どんなところですか。
約3万坪ある庭ですね。四季を通じて変化が楽しめますし、鳥も大変多いので、バードウオッチング用の双眼鏡も貸し出しています。お子さんの情操教育のためなのか、親子で双眼鏡を借りて行かれる方も多いですよ。台風の後は、木が倒れていないかとか影響をチェックしに庭を見て回ったりしますが、それだけでも本当に気持ちがいいんですよ(笑顔)。
−一般の方から国家元首までいろんな方が訪れています。多くのお客さまに長く愛される理由は、いったいどこにあるのでしょう。
当ホテルが長く愛される理由が何であるかということは、いろいろな要素があると思います。ただ、私がいつも従業員に話しているのは、人種、国籍、宗教の違いで差別しないように注意しなさいということと、食品衛生や安全管理など生命に関わるようなところは十分に注意しなさい、ということくらいで、従業員に対してあまり細かいことに口出ししません。大切なのはお客様を歓迎する心です。ある程度基本ができていれば、あとはスタッフ一人ひとりの裁量に任せて、自由にやってもらっています。そのことで、万が一粗相があった時は、周りのスタッフや上位職がしっかりケアすれば大丈夫だと考えています。
−そのおおらかさが、ホテル内の雰囲気につながっている気がします。
自分でもいちいち指示されると嫌じゃないですか。山梨県の人はとくに、細かいところまで指示されるのが嫌いなんですよ(笑)。
−子どもの頃、富士山はどう見ていましたか。
住んでいた家からは、ちょっと山の陰になっていて富士山は見えませんでしたが、小、中、高、どの学校からもすぐに見えましたので、非常に身近でした。ただ車で行ける五合目から上に、登ったことはないんですよ。親にも、富士山には生半可な気持ちで登ってはいけないと言われていたし、自分としても、甘い気持ちで行くのも失礼だな、と思って。ただ三つ峠とか杓子山とか近隣の山々には子どもの頃から何度も登っていますし、そこから富士山を眺めたりはしています。
−富士山は眺める方が好き、と。
というか、“そこにある”のがいいですね。大学の時に東京に行ってつくづく感じたのは、自分は富士山がないと方角がわからない、ということ。地元ではどこからでも富士山が見えますから道に迷うことはなかったんですが、東京でいきなり方向音痴になったというか(苦笑)。あと、富士山を見ると“ふるさと”という感じがしますね。やはり大学時代、長い休みになると高速バスで東京から帰って来ていたんですが、大月から小形山のトンネルを抜けてしばらくして富士山が見えてくると、ああ、やっと帰って来た、家に着いたな、という感じがしました。
−一番印象に残っている富士山を教えてください。
若い頃、夜勤の時にホテルに泊まって朝早く起きると、いつも一番上の展望塔からずっと富士山を眺めていたんですよ。11月くらいだったと思いますが、ひときわきれいな富士山を見たことがあります。朝日が差して、空と富士山が紫から青、そして赤へと変化していく。写真に撮って年賀状にしました。あと高校時代に大雪明けの朝、高校で雪かきをしながら見た富士山もきれいでしたね。こっちは一生懸命雪かきをしてるのに、キーンと澄んだ空気の中、青い空を背景に富士山がのんびりポーンとそびえてた。あれもきれいでした。
−富士山の魅力は、どこにあると思いますか。
やはりあの姿だと思います。先日、松本で見た北アルプスの山々もすごくきれいでしたけど、どの山がどれか、訊かれてもなかなか答えられない。でも富士山は、すぐにわかります。そういう山は、他にはなかなかないですよね。
−これからの富士山に望むのはどんなことですか。
サンフランシスコにいた時にヨセミテ国立公園に何回か行きましたが、入園料を原資にして、環境保全に非常に力を入れていました。レンジャーもいますしね。富士山も自然や環境を大事にしながら、地元や地元で観光業に従事する人たちの生活も潤うようなバランスのとり方を見つけられたらいいなと思います。しっかり維持管理することが末長い地元の繁栄につながると思いますからね。
1966年生まれ 富士吉田市出身 大学時代はバックパックを担いで日本各地を回る。大学卒業後は富士屋ホテル株式会社に就職、河口湖の富士ビューホテルに勤務。以後、箱根、グループ会社のハワイワイキキ、サンフランシスコにあるホテル、また東京、山梨などのホテルを経て2014年から現職。趣味はゴルフ。