−山梨県富士山科学研究所 HP の“自然環境に関する研究分野”を見ると、「富士山を中心とした生物相の調査、動植物の生態や生態系の維持に関する研究と長期的・広域的なモニタリングを通じて、富士山の自然環境保全に資する研究を行なっています」とあります。松山さんはそこでどんな調査をされているんですか。
研究員の専門分野、研究テーマによって調査はいろいろです。コウモリの観察で研究所の周囲にある森の観察路を毎日決まった量の時間歩いたり、宮沢賢治の『よだかの星』でもお馴染みのヨタカの調査で夜の演習場に入ったり・・。私が最初のころによく同行していたのはカモシカの研究員で、糞塊調査に必要なフンを採取するために一緒に山に入ったことがありました。カモシカは“溜めフン”をする動物で、排泄場所が決まっているんですよ。その排泄場所に行くには、カモシカの大好きな急斜面を行かなくてはいけない。調査にも山歩きにもまだ慣れてませんでしたから、急斜面の道なき道をカモシカみたいに歩く研究員の後ろについて、何度も滑落しかけながら必死に歩いていくのは本当に大変でした(苦笑)。でも途中から、本当は疲れているはずなのにどんどん体が動くようになって、どこに足を置いて、どこに掴まればいいかが瞬時にわかるようになったんです 。必死に研究員についていく私を、富士山の自然が導いてくれたのかなと今になって思います。一度だけの不思議な経験でしたけど、あの経験が生きているから、今も富士山の中で調査ができているんだと思います。富士山の森の奥深くに入って調査することが多いので、富士山の自然の豊かさをいつも感じています。
−屋外での作業がほとんどなんですか。
屋内の作業もありますよ。例えば富士山のあちこちに設置しているセンサーカメラを回収して、何が写っているかを細かく記録するのも助手の仕事です。カモシカやシカ、ウサギ、キツネ、テンなどの動物だけでなく鳥類も含めたあらゆる富士山の生き物のいろんな姿を見ることができる。目はショボショボになりますけどすごく楽しい作業です。その映像を見ていると、野生動物がいかに食べ物を探すことに時間を使っているか、本当によくわかるんですよ。ミネラルを摂取するために石を舐めたり。動物にとって生きること=食べることなんだなと、改めて気づかされました。太陽がのぼり切るまでじっと朝日を浴びているウサギがいると、やっぱり朝日を浴びるのって大事なのかなと思うし、上手に休んだり遊んだりしているのを見ると人間にもそういう時間は大切だよなと反省したり。彼らを見ていると、狩猟採集生活は理想的なんじゃないかと思ったりもします。
−移住のきっかけを教えてください。
2011年3月の東日本大震災で原発事故が起きた時に、食べ物のことがすごく心配になったんですよ。当時娘は3歳で、息子が9歳。二人に食べさせるものを自分で作りたいな、と。すぐに無農薬でお米を作る先生を探し始めたら、住んでいた八王子から車で通える富士河口湖町で自然農の田んぼの学校をやっている方がいらして、2012 年2月から通い始めました。そしたら籾から育てた苗が大きくなったころ、富士山に農鳥が現れたんです。それを見て「この土地の人たちはみんなあれを大事にしてるんだ。ここで暮らして農業をやるのは素敵だろうな」と。富士河口湖町がちょうど移住者向けの住居の斡旋などのシステムを整えていた時でとんとん拍子に話が進み、夏に河口浅間神社の参道脇の大きな農家に引っ越してきました。
−農業には以前から興味があったんですか。
幼いころから自然は大好きでいろんな動物を飼ってもいましたけど、農業は・・。だから自分でも驚きました。大学を出て映像関係の仕事を始めてからはコンピュータの前に座りっぱなしでしたから、「こんなにインドアなのに農業やるって本気なの?」って。でも実際に始めたら自分自身が元気になれるし、自然の力のすごさ、不思議さに驚くことばかりで、どんな作業も「大好き大好き」って(笑)。今の調査の仕事もそうですけど、自然の中にいると子どもみたいな気持ちになれるんですよね。お米は本当においしかったし、無農薬で無施肥なのに年々収量も上がっていたので本当は続けたかったんですけど、シングルマザーで子どもを育てることになり・・。2年間、山中湖観光協会の職員と二足の草鞋でやっていましたけど、やっぱり難しくて諦めました。最後の米作りは、仲間たちに協力してもらって、よくある格子じゃなくて螺旋の形に手植えしました(笑)。その年のお米は、今も少しだけとってあります。
−山中湖観光協会ではどんなお仕事を?
イベントをたくさん主催している観光協会なので、イベントの立ち上げと運営、そして広報です。山中湖は富士五湖の中でも私がとくに惹かれる湖なんですよ。天気のいい日は水面がキラキラ光って「天界ですか、ここは」と思うくらい他の湖とは雰囲気が違う。そんな山中湖でお仕事ができるなんて夢のようと思ったし、もともとイベントを立ち上げたり運営したりするのも好きでしたから夢中で働かせていただきました。3年半の間に、臨時職員から正職員、最後は主任にまでしていただいて・・。オフシーズンの静かな山中湖や周辺の森はとても素敵なので、オススメですよ。
−調査のお仕事を始めて4年目。富士山の自然に触れてどんなことを感じたり、考えたりしているのでしょう。
うちの研究所が主催した富士山自然観察会で植物の先生から、森の樹木は最初の何十年かはなかなか大きくならないけれど、周りの老木が倒れて日が射し込むようになると一気に伸びる、そうやって森は数百年のスパンで変遷を繰り返しているんだと聞いて、人間の寿命とのスケールの違いを感じたり、GPS発信機をつけさせてもらっている動物の死骸を回収するたびに人間の理想的な死に方について考えたりします。人間はどうあるべきなのかということを、教えられている気がします。
−今後、富士山について知りたいことはありますか。
つい最近、うちの研究所も関わった山小屋さん、自治体、麓の観光関係者さんなど富士山を本気で考える人たちのワークショップがあったんですが、みなさんが富士山の文化的な価値をすごく大事にされているのを知って、もっと富士講についてちゃんと勉強しなきゃいけないと思っているところです。昔の人たちは富士山に登ることで生まれ変わろうとしていたわけですよね。そういう富士山に対する人々の想いや、富士山がいかに神聖な山かということを訪れる人たちにもっとちゃんと知ってもらえたら、今、富士山が抱えている問題は、全部解決するんじゃないかと思います。私がここで米作りをやろうと思ったのも、富士山がそういう特別な山だったからじゃないかな。
−松山さんにとって富士山はどんな存在ですか。
保護者です(笑)。米作りをしている時から、守られていると感じてはいたんです。台風も富士山を避けて移動するから、ほとんど被害を受けませんしね。でも今は、精神的な部分ですごく大事にされていると感じます。生まれ育ったわけでもない土地で、女手一つで二人の子どもを抱えて生きていくのは正直心細いけれど、富士山がいるから大丈夫っていつも思う。調査の仕事で夜の富士山に入ったりする時も、全然怖くないんですよ。富士山は私のお父さんだから、守ってくれるし大丈夫だよって思っています(笑)。
まつやまみえ 埼玉県生まれ 父親の転勤で高校3年間を盛岡で過ごす。日本大学芸術学部卒業後、映画など数々の映像作品にマットペインターとして関わる。2012 年春、富士河口湖町で師匠の教えのもと無農薬無施肥の米作りを始める。同夏に家族で移住。その後、山中湖観光協会に3年半勤務し、2021 年7月から現職。自ら脚本・演出を担当し、身障者の人たちとミュージカルを上演したことも。今後力を入れたいのは“草の根文化応援隊”。「隣のおばあちゃんの民謡を聴くとか、自分の想いを何かで表現するとか、上手い下手は抜きにした庶民の文化活動や文化交流を大切にし、応援したい」と話す。
山梨県富士山科学研究所 HP
https://www.mfri.pref.yamanashi.jp
取材協力/富士山吉田口登山道馬返 大文司屋
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