―渡辺さんは、富士山のふもとで生まれ育ったそうですね。子どもの頃、富士山をどのように感じていましたか?
子どもの頃の私にとって、富士山は、特別な存在ではなかったです。子どもの頃は、サッカーをしたり山で遊んだり、毎日暗くなるまで夢中になって遊んでいました。その風景の中にある富士山は、いつも私の目の前にあって、日常の中にある風景の一部でしかありませんでした。
―富士山を特別な存在に感じるようになったのはいつ頃ですか?
進学のために上京したときです。都会の景色の中に富士山がないことに初めて気づいたら、寂しさのような感情が急に込み上げてきたのです。そして、私にとって富士山は、親や兄弟のような存在だったのだと痛感しました。そこにないことで、富士山の存在の大きさに気づいた瞬間でした。
―仕事にも影響を与えていたそうですね。
専門学校を卒業してから、和食の世界に入りました。食材の産地や料理の盛り付けなど、仕事のさまざまな場面で、富士山や富士五湖、生まれ育った土地のことを意識するようになりました。例えば、料理の盛り付けでは、山水画を意識します。私の中では、富士山があって富士五湖があるような景色を意識して盛り付けていました。豊かな景色に抱かれる富士山麓で生まれ育ったことは、感性を磨くのに、とてもよい影響を受けていたと思います。
―現在は蕎麦屋を営んでいます。
長女が小学校に入るタイミングで生まれ育った鳴沢村にUターンし、蕎麦屋を始めました。蕎麦打ちを始めたのは、都内のホテルで和食の修業をしていたとき、調理長に「田舎に帰るなら蕎麦打ちを覚えておくといい」と言われたのがきっかけです。基本の二八蕎麦のほか、さらしな蕎麦や季節の変わり蕎麦も習得しました。飽食の時代で美味しいものはいくらでもありますが、蕎麦はシンプルで美味しいものです。私が修業した築地さらしなの里の店主・赤塚昭二さんの口癖だった「蕎麦はうまくないけど美味しいよな」このひと言に尽きると思います。安心して口に入れることができるという食の原点を大切に、食材本来の味を生かせればよいと考えて、蕎麦を打っています。肩肘張らず、素材の味を楽しんでもらえればそれだけでよいとも思っています。
―地元の食文化ともつながっているのですか?
はい。この地域は火山灰質の土壌で稲作が難しく、昔から麦や蕎麦、大豆が主な農産物でした。だから蕎麦はもともと郷土料理なのです。蕎麦粉は収量が少なく、特別な日に食べるハレの日の料理でした。それをいかに日常の食として根付かせるかというのも、私のテーマのひとつです。
―地元での活動も積極的にされているそうですね。
地元に戻ってからはPTA役員を長く務めました。子どもが3人いるので、トータルで10年近く関わっていたことになります。PTAとは、本来は親が学び、社会に寄与するための活動だと思っています。地域のことを知る機会にもなりましたし、何より子どもたちのために何ができるかを考える貴重な時間でもありました。PTA活動を通じて子どもと接する中で、自分自身の感性も磨かれたように思います。固定観念にとらわれず、「みんなと同じじゃなくてもいいじゃないか」という逆転の発想が育ったのは、PTA活動での学びも大きかったと感じています。

―写真との出会いも劇的だったそうですね
15年ほど前、常連のお客様から富士山の写真を見せられて「君には撮れないだろう」と言われたのがきっかけです。その写真は、残照が当たる富士山頂に月が乗っている「赤富士パール」と呼ばれるものでした。しかも富士山全体が真っ赤に染まるのではなく、グラデーションがかかっていて山頂付近だけが赤く染まっているという、秀逸な作品でした。撮影するのが難しいということを知らない私は、悔しさのあまり、翌日、すぐに一眼レフを買いに行きました。そして次の満月を待ち、撮影に挑みました。しかし結果は惨敗。そこから、試行錯誤の日々が始まりました。今なら、なぜ撮れなかったのかをよく理解できます。
―なぜ撮れなかったのでしょうか。
月の軌道は楕円形で毎日月の出る位置が異なります。それに加え、富士山に残照の残る時間と撮影位置、富士山の高さと三つの関係で、満月の日、富士山頂に月が上がる時間には周りは真っ暗になってしまうからなんですね。以来、本やネットなどをフル活用して、独学で、撮影技術を学んでいきました。だんだんフォトコンテストに入賞するようになり、地元の自治体や企業から画像提供や撮影業務の依頼をいただくようになりました。
―独学でここまで来られたとはすごいですね。
職人気質なんでしょうね。見て覚える、経験して自分のものにする。撮影スポットは日々歩きながら探していて、気象や光の条件を見てその日の行き先を決めることが多いです。自然の中で迷子になることもありますが、それもまた発見です。
―渡辺さんは、富士登山ガイドと自然監視員もされています。始められたきっかけは何だったのですか?
富士山の写真を撮っているうちに、富士山にある山小屋のご主人のご家族にご紹介いただいて、ガイドの登録をしたのが始まりです。その後、登山の安全や人との関わりの大切さに目覚めて、ガイドとして本格的に活動するようになり、やりがいを感じるようになりました。また、自然監視員には、ガイド仲間にすすめられてなりました。自然監視員としては、登山者の安全を見守るだけでなく、富士山の自然環境を守る視点も求められます。富士山は多くの人にとって憧れの場所ですから、富士山周辺の自然を守る責任も感じています。
―富士登山ガイドとして、心がけていることは?
まずは何よりも安心安全であること。せっかく来てもケガをしたら残念な思い出になってしまいますから。それから、登山は「誰よりもゆっくり歩く」ことをおすすめしています。とにかくゆっくり楽しむんだと思えるようになると、景色や空気を楽しむ心のゆとりが生まれる。結果的に傷病のリスクが減り、素晴らしい光景をたくさん楽しむことができます。それが満足度の高さにつながるんです。
―少人数制にもこだわっているそうですね。
大人数だと一人ひとりに目が届かないですからね。4〜5人くらいで富士山に出かけ、同じ景色を見て感動を共有できる、そんなガイドを目指しています。富士登山をされる方の多くが山頂を目指すことにとらわれがちですが、富士山の魅力は、六合目や七合目でも十分に感じることができます。森林限界を抜けて突然ひらける景色を目にすると、まるで宇宙にいるような感覚に陥ります。
―富士登山というと、急峻な上り道を一歩ずつ必死に歩んでいくイメージがありました。誰よりもゆっくり、というのは意外です。
実際に話を聞くと、富士登山にはキツい記憶しかなく、もう二度と登りたくないという方は案外多いです。ですので私は、もう一度富士山に来たい・登りたいと思えるようにアテンドさせていただいています。富士山は、登るだけじゃない、見る、知る、語る…。富士山との関わり方は人の数だけあると思っています。
―お子さんにも富士山のことを伝えていらっしゃるのですか?
次女が大学進学で東京に行くとき、「富士山について、自分の言葉で話せるようにしておきなさい」と伝えました。富士山は日本人の心のよりどころで、日本人のアイデンティティの根源だと思います。だから、富士山の姿を見たとき、心が癒され、ほっとする。そして、富士山は多くの人が知っている存在ですから、富士山について、そして自分がその懐で生まれ育ったことについて語れることは、強みになるし、コミュニケーションツールにもなると思うんです。富士山のある土地に生まれ育ったという誇りを、言葉にして伝えてほしいと思っています。
―岡山理科大学ではどんな授業を?
富士山をテーマにしたフィールドワーク型の講義をしています。縄文時代から現代までの時間軸を作り、そこに文学、宗教、地質、気象、植物などの要素を織り交ぜて富士山を学びます。幅広いテーマに触れることで、学生が自分の興味のある切り口で深掘りできるようにしています。
―富士山について、ご自身も学びを続けているのですね。
ええ、むしろこちらが学ばせてもらっているのではないでしょうか。専門家とつながりながら、学びの「つなぎ役」として、学生たちに多様な視点を届けられる存在になれたらと思っています。富士山に関する一つのことを調べると、それがほかの分野や文化、自然の理解におのずとつながっていく。まるで一本の道が網のように広がっていくような感覚ですね。
―富士山は、今の渡辺さんにとってどのような存在ですか?
なくてはならない存在です。恋人とか親とか、そういう言葉では言い表せないくらい、人生の一部です。これまで私が富士山から受け取ったものを少しでも多く、次世代に伝えていくこと、それが今の私の役割だと思っています。


わたなべまもる 山梨県鳴沢村生まれ。専門学校卒業後、東京都内のホテルで和食料理人として10年間研鑽。その後、家族と共にUターンして地元で蕎麦屋を開業。郷土食としての蕎麦文化の継承と、富士山の自然・歴史・文化を伝える活動をライフワークにしている。富士山の撮影をきっかけに独学で写真を学び、現在は写真家としても活躍。少人数制の登山ガイドや自然監視員としてフィールドワークにも従事する。岡山理科大学では富士山をテーマにした授業を担当し、学生たちに多角的な学びを提供している。